Pocket

SMAPの全盛期はどれくらいすごかったかについてお伝えします。

嵐の比較対象としてもよく持ち出されるのが、SMAPです。すでに解散してしまいましたが、嵐の比較対象になったり、今のジャニーズの基盤を作ったのはSMAPだと言われたり、いったいどれくらいのスゴさだったのでしょうか?

SMAPの人気が出始めたのは1994年の半ばくらいからです。その頃に少なくとも小学生くらいでないと、当時のSMAPの人気ぶりを記憶していることはないでしょう。

このページでは、SMAP結成当時から、人気を得て国民的アイドルと呼ばれるまで、そしてブレイク時期のことについて、視聴者目線でリポートします。売り上げなどの数字や、テレビ、コンサートなどでの活動は、多くのWebサイトで知ることが出来ます。このページでは、実際の学校や社会で何が起きていたか、人の反応、人気ぶりなど、生々しい情報をお伝えします。SMAPの全盛期の人気ぶりについて理解出来ると思います。



デビューまでのSMAP

SMAPの結成から、人気が出るまでの期間を軽く振り替えってみたいと思います。

1988年に、光GENJIのバックダンサーであるスケートボーイズ12人の中からSMAPとして結成されます。1989年、既にめざといクラスの女子の中には、新学期の自己紹介用紙に「好きな芸能人:SMAPのきむらたくやくん」と書いている子もいました。男子からしたら、「誰それ?すまっぷって何?」という具合です。雑誌の切り抜きを見せてもらうと、確かに美男子でしたが、あれ? メンバーの中には小さな子供もいる、という感じのやり取りがなされていました。今思えば、香取慎吾です。

結成してからデビューまでの間、自分達の出演番組もいくらかはありましたが、1989年といえば、バンドブームが沸き起こった年です。今では日本を代表するロックバンドのX JAPANをはじめ、BUCK-TICKやLINDBERGなど様々なバンドが流行りました。いかすバンド天国という人気の深夜番組を発端に、アマチュアバンドにまでスポットが当たるくらい、バンドブームがすごく、光GENJIの人気は低迷を始め、アイドル達はそのバンド人気の影でひっそり活動していた、という印象です。その中でもSMAPの一般の知名度は恐ろしく低かったのです。

デビュー後、徐々に人気は上がっていった

1991年、デビューしたものの、小中高のクラスのなかで「SMAP」などと言っている女子は皆無に等しく、ごく一部のコアなファンに支えられていた印象です。デビュー間もなく、テレビ東京系でバラエティの冠番組を持ちましたが、ほとんど話題になることもありませんでした。

そんな中、1992年に夢がモリモリが始まりました。同じ時間帯で「夢で会えたら」を見ていた若者でそのまま次に始まった「夢がモリモリ」を見ている、という人は多かったです。

同じ年、稲垣吾朗が牧瀬理穂と共に主演した「二十歳の約束」が始まりました。牧瀬理穂は、この年はブレイクの年であり、すでに有名人でしたが、稲垣吾郎の知名度はまだ全然、という感じで、芸能通の子が「あの主演の男、SMAPだよ」と教えてもらって知る、とうほどです。

そして、1993年、「あすなろ白書」が始まりました。当時人気の筒井道隆の脇役という位置付けでしたが、ドラマのヒットもあり、木村拓哉の若者の間での知名度は一気に上がりました。稲垣、木村、両氏ともにアンチ発言するひとは、男女ともに少なかったのです。世間ではSMAPというアイドルがドラマに出た、ということではなく、ドラマで演じている人はアイドルとしても活動している、という見方でした。

同じ頃、クイズ番組などのバラエティ番組では、中居正広の露出も増え始め、司会ではなく、いち出演者にもかかわらず存在感を出し始めてきました。

1994年、「heyheyおおきに毎度あり」「オリジナルスマイル」のヒットに続き、「がんばりましょう」でSMAPの人気に火が点きました。「がんばりましょう」はポップ調で、あまりアイドルらしくない親しみやすい曲で、若者はカラオケでよく歌っていました。
決して歌だけがブレイクしたわけではなく、それぞれのメンバーの個別の目立った活動と、夢がモリモリが合い間ってのブレイクといった感じでした。下積み時代の努力が実ったというわけです。

光GENJIと違い、男子からも好感度抜群

当時、高校生や大学生の男子の間でも、夢がモリモリの内容について盛り上がる、といった光景がよく見られました。
男子達は、「慎吾が」「吾朗が」と愛称で呼びながら話すこともあり、爆発的な人気を誇った光GENJIのときとは、明らかな違いがありました。SMAPは光GENJIよりも好感が持てるね、と言う男子もいたくらいです。光GENJIは完璧な”アイドル”であったのに対し、SMAPはみんなを楽しませるタレント、という印象でした。

実際に当時のSMAPの番組は、かぶり物のコントや腕相撲、汚れ役によるおおげさなパフォーマンスなど、見ていて普通に楽しめる内容のものが多かったです。光GENJIもドラマやバラエティで見かけることはありましたが、これはトークや演技に含蓄がある、というより光GENJIメンバーそのものを観賞することに意味があった、という位置づけになります。

SMAPの人気と存在感の大きさが出来上がった背景には、事務所やSMAP本人たちが光GENJIの人気低迷を見て、人気持続のために足りなかったものを補った、という事情があるかもしれません。



長期的な人気を匂わせた

先に書いたように、SMAPはドラマ、バラエティ番組、そして歌が流行りました。曲も次々出てきましたが、光GENJIで見られた時ような失速感が感じられませんでした。94年の後半には、木村拓哉の「若者のすべて」、中居正広の「味いちもんめ」、稲垣吾郎の「東京大学物語」が始まりました。ドラマがバンバン来たのです。若者達、特に男子は木村拓哉のドラマでのファッションをまね始めました。また、中居正広がドラマで来ていたジャンパーもラフで、同年代の男子達はよく着ていたものです。

その94年当時、SMAPがそのずっと前から活動していたことは、知名度の低さながらも多くの人が知っていました。当時、「SMAPは下積みが長かったからね~」と、その頑張りを認める声が多かったのです。歌もさることながら、ドラマ、バラエティ番組の面白さ、ファッションセンス、テレビCMなど多くのSMAPコンテンツがどんどん世に流れ、これまでのジャニーズとはひと味違うことを世間に見せつけました。男女年齢問わず受け入れられる感じがムンムン来ていました。この人気はしばらく終わらなそうだ、と多くのアイドル評論家が口にし、結果、SMAP人気は長期化しました。

SMAPのブレイクを認識! 決定付ける出来事

さきほどから、「94年」と繰り返していますが、SMAPブレイクを認めるべき出来事が年末に起こります。NKH紅白歌合戦です。

前の年まで3回出場しています。can’t stop、雪がふってきた、$10です。すべて曲の一番のみしか歌っていません。しかし94年の紅白ではフルコーラスで歌っています。前の年までは、ジャニーズ枠か光GENJIのセットとしての出場のような位置付けだったのに対し、長い時間の枠を取っての歌唱であり、木村拓哉、中居正広も自分のキャラを全面に押し出すようなパフォーマンスでした。チャンスがあれば、ぜひ見て頂きたいものです。

これにより、世間もこの歌唱を見て「SMAP来た!」とブレイクを改めて実感することになります。当時の紅白歌合戦は、今のインターネット時代に比べて、国民の関心、注目度も高く、それを見てトレンドを知る向きがありました。



デビューよりだいぶ前のこと

人気がブレイクするまでの低迷期では、メンバーは苦しい思いをしていたはずです。

神奈川県の湘南地区のとある場所で、まだ全然売れてない頃のSMAPがロケにやって来ました。当時はまだ光GENJIがジャニーズの代表格だったので、SMAPはまだ知名度も低く、かわいそうな立ち位置でもありました。見物人の若い男子が、「SMAP、○○○○!」とSMAP達に向かって、叫びました。(○には、チョー下品で男が屈辱に感じる言葉が入ります。)それを聞いたSMAPの反応は、
4人⇒無視
1人⇒「おい!今いった奴だれだよ!(怒)」
1人⇒「いいから、ほっとけよ、、」((怒)のメンバーに対して)
ということです。筆者は友人から聞いたので、まだ知名度の低いメンバー達のそれぞれ誰なのかはわかりません。

ここからは、推測です。おそらく、
無視  :稲・森・草・香
(怒) :中居
なだめ :木村
ではないでしょうか?

まだジャニーズブランド確立の前、このような苦い時期をずっと経験してきた後でのブレイクでしたから、きっと売れる前のSMAPメンバー達の苦労は相当のものだったと予想がつきます。


 

そんな苦労を抱えた後でのSMAPブレイクでしたが、ブレイク当時の各メンバー6人についても記事をまとめていますので、是非ご覧ください。
SMAPのブレイク時はどのくらいすごかったか?(メンバーとしてのすごさ)